2014/05/30

距離感




















距離感なんだ。
ということをすごく思うのです。

 *

傷つくのは、
自分と他人が混ざってしまうから。

それは、
自分の内側に「招き入れ過ぎる」から。

そして、

そこまで入ってもらえないことに
違和感を感じるからなのかも?

と思うのです。

 *

でも距離感を保ってもらえたら、
安心して話せます。

 *

ここしばらくわたしは、

記憶にあげた後、
しばらくすると震えが出てくるような

深い傷みたいなものと
じっくり向き合っています(職業病です・笑)。

これが何度も何度も、

自分の恋愛を邪魔して来た
「何か」なのは解っているので、

もういい加減繰り返すのはイヤですし、

何がどうなって
こんなに複雑になっているのか?

というのを
つぶさに観ていっているのです。

 *

もちろん背後には
しんどい経験が山積みになっていたりして

それをある種意図的に
事実を加工し、

認識している自分が
隠れていたりして、

まあ、無意識に
結構「物語になっている」ものだな…

と解ってきました。

 *

こういう心の深堀りは
深くなり過ぎてくると

自分1人でやると堂々巡りをするので、

他人のエネルギーを
受け皿に使うと俄然効率がいいです。

こんな言い方だと酷い人だっていう
誤解を受けそうですが…(笑)。

要はカウンセリングみたいなことです。

ただし、
実際のカウンセリングだと

相手のカウンセラーさんが、
相当な深度でご自身と向き合っていないと、

難しいことが多い筈です。

 *

心の深いところというのは、

自分を痛めつけないように
抽象度があがっていることが多く、

それ故に
聴き手が勝手な解釈を交えやすく

=巻き込まれやすくなります。

聴く側の力量によっては、
危ないことも多いのです。

 *

そんな訳で
わたしは文字を使う訳なのですが、

壁打のように
連日連絡をさせてもらっているお友達がいて、

はた迷惑かと思いますが
相当助かっていたりします(笑)。

やりとりをする中で、


無理したり手伝ったりしてる感はない。
関心がないわけではない。


といった内容のレスポンスがあって、

その時に、
ああ、これだ!この距離感!本当に助かる!

と思ったのです。

 *

巻き込まれないで、
居てくれる。

ということは本当に助かります。

他人のままで居てくれるというのは
実に安堵します。

何故って、
関係性にどんなレッテルが貼られようとも、

家族であっても何でも、

身体が別々に分かれている以上、
他人は他人なのですから。

そこが非常にシンプルに
現実的な視点だからです。

 *

英会話の先生とおしゃべりをしていて

イギリス人の彼が「日本人は不思議だ」と
言っていたのを思い出します。


きみと僕は別の人だから、

だから何か困っていたら
手伝いたいなと思ったり、

助けられることがあれば
やるよ、と言えるのに。

と。


今のわたしは完全に同意見です。

 *

しかし長年わたしは、
ずっと「解って欲しかった」のです。

どうして解ってもらえないのか?が、
判らなかった。

でもそれは。

今思うと「話していないから」なのです。

話していないということに
気がつけていなかった。

何故そうなったかの理由も解りました。

だけど余りにも解って欲しくて、
解ってもらえないことに絶望していたので、

自分が他人を解ってあげられたら、

きっと解ってあげた後にはわたしの番が来て、
解ってもらえるに違いない!

と幼心に思ったのです。

小学生の時でした(笑)。

 *

今は、解らなくていいじゃないか。
と思っています。

この心境の変化は何だろうと思う位です。

 *

「他人のことは解りませんからねえ」と、

入院していた時に
主治医から言われました。

彼はわたしに

「あなたは真っ直ぐ過ぎて折れてしまいそうだ」
と言った人でした。

その言葉の醸し出すニュアンスは、

自分が自分に長年抱いていた感覚と
完全に一致していたので、

衝撃でした。

その人が「他人のことは解らない」と言うなら、
そうなのだろうと思いました(笑)。

人って本当にいい加減なものです(笑)。

 *

実際は、

「どうしてさやかちゃんには解るの?」というのが
わたしの日常だったので、

その言葉の意味は、

自分にはピッタリ当てはまらない

とは思ったのですが(笑)。

でも「他人のデフォルト」はそうなのだろうと。

じゃあ、その前提で
世界を見つめ直してみようと思いました。

 *

そうすると、

解らないという前提なら
話す必要があるのですよ(笑)!

シンプルです。

勘違いされても、
ああ、解らないからなんだなと思えば

訂正も簡単です。

「チガウチガウ、そういう意味じゃなくて!」
と言うことも気楽になりました。

解らないから、
聴き合ったり出来るって楽しいなと。

解らない筈なのに、

時折「え〜!」と思う位
突然理解されたりして、

感動したりもします(笑)。

わたしの長年続いていた、

寂しくて独りぼっちの世界は
これによって大分改善されたのです。

 *

もちろん、それとは別に
「理解者」というのは居て。

理解者が
どんどん死んでいってしまうことは

わたしの独りぼっち感を強めていました。

それも、今回何が原因で、
その恐怖感が強くなっていたのかが観えました。

 *

幼稚園時代に、
小学生だった「みきのお兄ちゃん」は、

わたしを怖がらせないように、
少しずつ少しずつ距離をとってくれて、

「ここまで来たら怖くない?」
「ここなら大丈夫?」

と離れてくれました。

そしてわたしが自分から
近づいていくことの出来た最初の人でした。

そう、距離を取って
待っていてくれた人だったのです。

 *

その人がわたしの高校時代に
死んでしまった時に、

わたしは初めて彼が
とても大切な人であったことに気がつきました。

生きていてくれるだけで
支えになっている人がいたのを知ったのも、

その時でした。

亡くなったことを聴いた片耳が
しばらく聴こえなくなる位には、

ショックでした。

そして、
そのまま押し込めていた記憶だったのです。

本当に大切な人を失うという
恐怖感の原点は彼だったと思います。

 *

大切な人に生きていて欲しいと思うのは、
シンプルな気持ちです。

いつかわたし達は死んでしまう訳なのだけど、

それまで幸せでいて欲しいと思うのは、
大切だからです。

 *

過去に起った
数々の怖いことにも向き合いました。

自分が悪いと思って来たことや、
でもどう考えても納得が行かないこと。

なくなっている記憶がある
ということだけは判って、

自分のために
正直に誠実に生きていたというのに、

もはやその自分を100%信じ切るのも
難しいということ。

そのショック。

明け方、号泣しました。

 *

何度か歯の根が噛み合なくなったり
震えが酷く出た後、

距離感を感じるメールにホッとして、
泣き止んで眠って、

そして目が覚めたら。

わたしの中で、

何かがしっかり
立ち上がって来た感じがあります。

 *

過去は変えられないし、
事実は事実のままだよということ。

でもそれは記憶であって、
今あることとは違う。

共通した記憶は、
確かに今を阻害することもあるけれど、

同時に引き上げることもある。
素敵な記憶は、人を引き上げます。

あらゆる意味で、

今の自分が
過去のことによって左右されることは

当然あると思うけれど。

でも。
それは仕方ないと思う。

それでいいと思う。

 *

現状をしっかり見つめた時に、

ああ、これは
とても不利な条件が揃っているなと、

思ってからがスタートなのではないかと。

「それで、どうしたいの?」
「それでも、どうしたいの?」

ちゃんと「グラウンディングする」というのは、
本当にこういうことなのですよ。

「地に足をつける」というのは、

ちゃんと今ある自分を
見つめて、認めるということ。

何も難しいことを言っている訳でもなく、
すごく基本的なことを

そういう「言い方」で表現しているだけです。

 *

わたしが全員を
同じように大事にするのが無理なように、

みんながみんな

わたしを大事に想ってくれるなんて
あり得ないし、

でもだから人生にはバランスが保てる。

いじわるな人を大事にしても、
自分が辛くなるだけなんだから、

それこそ距離を遠くに置いて、
大好きな人達の側に居たい。

大好きな人と毎日会い続けても、
時間は多分足りない位だよね、とも思います。

 *

どんなしんどい過去があったとしても、

その自分を
大事にするかしないかは、

自分が決めていいことだなと思います。

誰かが、
決めてくれることとは違う。

「わたしが、どうしたいか」なのだと思います。

 *

わたしは自分に対して
いじわるを続けるのはもうイヤです。

眉間に皺が寄ってしまいます(笑)。

誰よりも、
自分を助け出したかった。

沢山のレッテルを
ひとつひとつ丁寧にはがして、

何故そうなっているのかを観てきました。

それは同時に、
大切な誰かを助けたかったからでもあります。

わたしは助けたかったのです。

多分…ちゃんと…相手を観て。
そして本気で助けたかった。

でもどんなに他者として存在しても、
そう出来るようになっていっても、

それは難しかった。

それでも、その時は助けたかったのです。
大切に想っていたから。

本当に辛かった時に、

その理由が実際は何であれ、

手を差し伸べてくれたことへの
感謝があったからです。

 *

笑っていたいし、
誤摩化さないでいたい。

見つめ切って、
そこで全てを行っていたい。

澄んだ水みたいな状態で、
物事を感じていたい。

わたしが、そうしたいのです。

だから、わたしは
向き合って来たのだもの、

と思います。

 *

誰かが
解ってくれなくても良い。

聴き合えたら良いから。

だから今、

ものすごく勉強して、努力して、

聴けるようになっている自分は
素敵だと思えます。

 *

お友達に、

自分でさえ向き合いきれないような、
受け容れ難いような、

こんな自分の経歴は、

つまりわたしは、
受け容れられないだろうと思っていました。

だけど。

本当にギリギリまで追いつめられて、
吐き出していった時に、

聴いてくれる人は1人や2人じゃなくて、
結構いっぱい居たのです。

 *

もうそろそろ
さやかちゃんが幸せになる番よ。

と。

祈っておくから。

と。

世間的にひいちゃうような
ご大層なレッテルを抱えているわたしに、

お友達が言ってくれるのです。

時々思いっきり気がおかしくなって
人に迷惑をかけていても、

距離を保ってくれる人がいっぱい居て、

そんな最中にも
会いたいと言ってくれる人が居て、

応援してると言ってくれる人が居て。

 *

もちろん、

非常識だとか、
それはあなたがおかしいとか、

それでは社会的信頼はないとか、

そういうのも
同じ位言われる訳なのだけど。

 *

でも。

そこに居てくれる人達は居る。

遠くなったり近くなったりするんじゃなくて、
いつも通り居てくれる人達が居る。

頭から否定したりするんじゃなくて、
何があったの?と先に聴いてくれる人達が居る。

コンディションの
おかしくなっている時も、

何もなかったみたいに
やり取りしてくれる人達が居る。

大切な人達を
ご紹介してくださる人達も居る。

こんなにめちゃくちゃなのに、
むしろそれはすごいことかも知れない

とさえ思います。

 *

だからわたしは多分。
また明日から大丈夫になると思います。


ストーン・コンシェルジュ & アクセサリー作家 みたけさやか

0 件のコメント: