距離感なんだ。
ということをすごく思うのです。
*
傷つくのは、
自分と他人が混ざってしまうから。
それは、
自分の内側に「招き入れ過ぎる」から。
そして、
そこまで入ってもらえないことに
違和感を感じるからなのかも?
と思うのです。
*
でも距離感を保ってもらえたら、
安心して話せます。
*
ここしばらくわたしは、
記憶にあげた後、
しばらくすると震えが出てくるような
深い傷みたいなものと
じっくり向き合っています(職業病です・笑)。
これが何度も何度も、
自分の恋愛を邪魔して来た
「何か」なのは解っているので、
もういい加減繰り返すのはイヤですし、
何がどうなって
こんなに複雑になっているのか?
というのを
つぶさに観ていっているのです。
*
もちろん背後には
しんどい経験が山積みになっていたりして
それをある種意図的に
事実を加工し、
認識している自分が
隠れていたりして、
まあ、無意識に
結構「物語になっている」ものだな…
と解ってきました。
*
こういう心の深堀りは
深くなり過ぎてくると
自分1人でやると堂々巡りをするので、
他人のエネルギーを
受け皿に使うと俄然効率がいいです。
こんな言い方だと酷い人だっていう
誤解を受けそうですが…(笑)。
要はカウンセリングみたいなことです。
ただし、
実際のカウンセリングだと
相手のカウンセラーさんが、
相当な深度でご自身と向き合っていないと、
難しいことが多い筈です。
*
心の深いところというのは、
自分を痛めつけないように
抽象度があがっていることが多く、
それ故に
聴き手が勝手な解釈を交えやすく
=巻き込まれやすくなります。
聴く側の力量によっては、
危ないことも多いのです。
*
そんな訳で
わたしは文字を使う訳なのですが、
壁打のように
連日連絡をさせてもらっているお友達がいて、
はた迷惑かと思いますが
相当助かっていたりします(笑)。
やりとりをする中で、
無理したり手伝ったりしてる感はない。
関心がないわけではない。
といった内容のレスポンスがあって、
その時に、
ああ、これだ!この距離感!本当に助かる!
と思ったのです。
*
巻き込まれないで、
居てくれる。
ということは本当に助かります。
他人のままで居てくれるというのは
実に安堵します。
何故って、
関係性にどんなレッテルが貼られようとも、
家族であっても何でも、
身体が別々に分かれている以上、
他人は他人なのですから。
そこが非常にシンプルに
現実的な視点だからです。
*
英会話の先生とおしゃべりをしていて
イギリス人の彼が「日本人は不思議だ」と
言っていたのを思い出します。
きみと僕は別の人だから、
だから何か困っていたら
手伝いたいなと思ったり、
助けられることがあれば
やるよ、と言えるのに。
と。
今のわたしは完全に同意見です。
*
しかし長年わたしは、
ずっと「解って欲しかった」のです。
どうして解ってもらえないのか?が、
判らなかった。
でもそれは。
今思うと「話していないから」なのです。
話していないということに
気がつけていなかった。
何故そうなったかの理由も解りました。
だけど余りにも解って欲しくて、
解ってもらえないことに絶望していたので、
自分が他人を解ってあげられたら、
きっと解ってあげた後にはわたしの番が来て、
解ってもらえるに違いない!
と幼心に思ったのです。
小学生の時でした(笑)。
*
今は、解らなくていいじゃないか。
と思っています。
この心境の変化は何だろうと思う位です。
*
「他人のことは解りませんからねえ」と、
入院していた時に
主治医から言われました。
彼はわたしに
「あなたは真っ直ぐ過ぎて折れてしまいそうだ」
と言った人でした。
その言葉の醸し出すニュアンスは、
自分が自分に長年抱いていた感覚と
完全に一致していたので、
衝撃でした。
その人が「他人のことは解らない」と言うなら、
そうなのだろうと思いました(笑)。
人って本当にいい加減なものです(笑)。
*
実際は、
「どうしてさやかちゃんには解るの?」というのが
わたしの日常だったので、
その言葉の意味は、
自分にはピッタリ当てはまらない
とは思ったのですが(笑)。
でも「他人のデフォルト」はそうなのだろうと。
じゃあ、その前提で
世界を見つめ直してみようと思いました。
*
そうすると、
解らないという前提なら
話す必要があるのですよ(笑)!
シンプルです。
勘違いされても、
ああ、解らないからなんだなと思えば
訂正も簡単です。
「チガウチガウ、そういう意味じゃなくて!」
と言うことも気楽になりました。
解らないから、
聴き合ったり出来るって楽しいなと。
解らない筈なのに、
時折「え〜!」と思う位
突然理解されたりして、
感動したりもします(笑)。
わたしの長年続いていた、
寂しくて独りぼっちの世界は
これによって大分改善されたのです。
*
もちろん、それとは別に
「理解者」というのは居て。
理解者が
どんどん死んでいってしまうことは
わたしの独りぼっち感を強めていました。
それも、今回何が原因で、
その恐怖感が強くなっていたのかが観えました。
*
幼稚園時代に、
小学生だった「みきのお兄ちゃん」は、
わたしを怖がらせないように、
少しずつ少しずつ距離をとってくれて、
「ここまで来たら怖くない?」
「ここなら大丈夫?」
と離れてくれました。
そしてわたしが自分から
近づいていくことの出来た最初の人でした。
そう、距離を取って
待っていてくれた人だったのです。
*
その人がわたしの高校時代に
死んでしまった時に、
わたしは初めて彼が
とても大切な人であったことに気がつきました。
生きていてくれるだけで
支えになっている人がいたのを知ったのも、
その時でした。
亡くなったことを聴いた片耳が
しばらく聴こえなくなる位には、
ショックでした。
そして、
そのまま押し込めていた記憶だったのです。
本当に大切な人を失うという
恐怖感の原点は彼だったと思います。
*
大切な人に生きていて欲しいと思うのは、
シンプルな気持ちです。
いつかわたし達は死んでしまう訳なのだけど、
それまで幸せでいて欲しいと思うのは、
大切だからです。
*
過去に起った
数々の怖いことにも向き合いました。
自分が悪いと思って来たことや、
でもどう考えても納得が行かないこと。
なくなっている記憶がある
ということだけは判って、
自分のために
正直に誠実に生きていたというのに、
もはやその自分を100%信じ切るのも
難しいということ。
そのショック。
明け方、号泣しました。
*
何度か歯の根が噛み合なくなったり
震えが酷く出た後、
距離感を感じるメールにホッとして、
泣き止んで眠って、
そして目が覚めたら。
わたしの中で、
何かがしっかり
立ち上がって来た感じがあります。
*
過去は変えられないし、
事実は事実のままだよということ。
でもそれは記憶であって、
今あることとは違う。
共通した記憶は、
確かに今を阻害することもあるけれど、
同時に引き上げることもある。
素敵な記憶は、人を引き上げます。
あらゆる意味で、
今の自分が
過去のことによって左右されることは
当然あると思うけれど。
でも。
それは仕方ないと思う。
それでいいと思う。
*
現状をしっかり見つめた時に、
ああ、これは
とても不利な条件が揃っているなと、
思ってからがスタートなのではないかと。
「それで、どうしたいの?」
「それでも、どうしたいの?」
ちゃんと「グラウンディングする」というのは、
本当にこういうことなのですよ。
「地に足をつける」というのは、
ちゃんと今ある自分を
見つめて、認めるということ。
何も難しいことを言っている訳でもなく、
すごく基本的なことを
そういう「言い方」で表現しているだけです。
*
わたしが全員を
同じように大事にするのが無理なように、
みんながみんな
わたしを大事に想ってくれるなんて
あり得ないし、
でもだから人生にはバランスが保てる。
いじわるな人を大事にしても、
自分が辛くなるだけなんだから、
それこそ距離を遠くに置いて、
大好きな人達の側に居たい。
大好きな人と毎日会い続けても、
時間は多分足りない位だよね、とも思います。
*
どんなしんどい過去があったとしても、
その自分を
大事にするかしないかは、
自分が決めていいことだなと思います。
誰かが、
決めてくれることとは違う。
「わたしが、どうしたいか」なのだと思います。
*
わたしは自分に対して
いじわるを続けるのはもうイヤです。
眉間に皺が寄ってしまいます(笑)。
誰よりも、
自分を助け出したかった。
沢山のレッテルを
ひとつひとつ丁寧にはがして、
何故そうなっているのかを観てきました。
それは同時に、
大切な誰かを助けたかったからでもあります。
わたしは助けたかったのです。
多分…ちゃんと…相手を観て。
そして本気で助けたかった。
でもどんなに他者として存在しても、
そう出来るようになっていっても、
それは難しかった。
それでも、その時は助けたかったのです。
大切に想っていたから。
本当に辛かった時に、
その理由が実際は何であれ、
手を差し伸べてくれたことへの
感謝があったからです。
*
笑っていたいし、
誤摩化さないでいたい。
見つめ切って、
そこで全てを行っていたい。
澄んだ水みたいな状態で、
物事を感じていたい。
わたしが、そうしたいのです。
だから、わたしは
向き合って来たのだもの、
と思います。
*
誰かが
解ってくれなくても良い。
聴き合えたら良いから。
だから今、
ものすごく勉強して、努力して、
聴けるようになっている自分は
素敵だと思えます。
*
お友達に、
自分でさえ向き合いきれないような、
受け容れ難いような、
こんな自分の経歴は、
つまりわたしは、
受け容れられないだろうと思っていました。
だけど。
本当にギリギリまで追いつめられて、
吐き出していった時に、
聴いてくれる人は1人や2人じゃなくて、
結構いっぱい居たのです。
*
もうそろそろ
さやかちゃんが幸せになる番よ。
と。
祈っておくから。
と。
世間的にひいちゃうような
ご大層なレッテルを抱えているわたしに、
お友達が言ってくれるのです。
時々思いっきり気がおかしくなって
人に迷惑をかけていても、
距離を保ってくれる人がいっぱい居て、
そんな最中にも
会いたいと言ってくれる人が居て、
応援してると言ってくれる人が居て。
*
もちろん、
非常識だとか、
それはあなたがおかしいとか、
それでは社会的信頼はないとか、
そういうのも
同じ位言われる訳なのだけど。
*
でも。
そこに居てくれる人達は居る。
遠くなったり近くなったりするんじゃなくて、
いつも通り居てくれる人達が居る。
頭から否定したりするんじゃなくて、
何があったの?と先に聴いてくれる人達が居る。
コンディションの
おかしくなっている時も、
何もなかったみたいに
やり取りしてくれる人達が居る。
大切な人達を
ご紹介してくださる人達も居る。
こんなにめちゃくちゃなのに、
むしろそれはすごいことかも知れない
とさえ思います。
*
だからわたしは多分。
また明日から大丈夫になると思います。
ストーン・コンシェルジュ & アクセサリー作家 みたけさやか
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