2014/05/13
出来ないのではないか?という恐怖感
怖いんだなと思います。
「わたしは本当に出来るのかな?」
ということが。
*
「あなたに出来る訳がない!」
そういう第一声から
いつだってスタートして来た筈なのに。
それを乗り越えてやり続けて来た筈なのに。
連呼されて来た、
「その程度なのか(笑)」
「そんなことも出来ないのか(笑)」
みたいな声が
心の奥の方に残っているなと感じます。
*
病気で社会的信頼を
一切失った気持ちを味わった後、
立ち上がるのに3年以上かかりました。
再発の恐怖感を克服するのに、
6年以上かかりました。
再発と思われるような状況を
自分の判断を信じて乗り切って、
そうして今があるのだけれど。
出来るのだろうか?
本当に出来るのだろうか?
という不安感がつきまとうのです。
「出来ないのではないか?」
それがどこか足を引っ張っている。
何故って、
やったことがないから?
何故って、
また壊れてしまうのではないか?と
そっちの想像の方がリアルに出来るから?
*
「本当にそうなの?」
わたしは自分に問いかけています。
*
「社会生活を営めるようになって欲しいの」
「普通に出来るようになって欲しいの」
親からつい先だって言われた言葉に、
多少なりとも心の折れた気配を
今更に感じます。
42歳にもなって、
何故こんなささいなことで折れるのかな?
わたしがこの7年かけて立ち上がって来た
そのがんばりは?
その社会的実績について、
何を彼らは観てくれていたのだろう?
何を観てくれていたのだろう?
そこに強烈な虚無感があるのです。
*
お友達の助けを借りるのだって、
能力のひとつだと思います。
相談先を見つけることだって、
能力のひとつだと思います。
協力してもらえるように
話を持ちかけることだって、
能力のひとつだと思います。
問題解決をしていくこと…
解決の糸口を見つけること、
知識を入れること、
状況判断すること、
色んなことを瞬間瞬間にやりながら、
今のことと未来のことをやり続けて行く。
やっている今もあるのに。
この恐怖感は一体何だろう?
と思います。
*
「出来ないわたし」を
求められているような怖さ。
それによって縛りつけられてしまうと感じる
自分の弱さみたいなもの。
無意識にそれへと応えそうになる、
自分の習慣的なもの。
「本当にそれでいいの?」と
自分に問いかけています。
*
社会的信頼は、
人間性だけで補えない部分もあります。
これだけ頻繁に
コンディションを崩していれば、
サラリーマンの頃とは違い、
相応の収入になります。
それはでも、
どうしようもないことだし、
仕方がないことです。
*
ただ、本当に
自分の未来を考えることを
ちゃんとしなかった自分自身には、
少し腹が立ちます。
こんなに甘えていたのか、
という感覚もあります。
一方で、
あの状況で、
あそこまでがんばれる人は
そんなに居ない筈だと。
それは甘えとは呼ばないのではないか?
とも思います。
*
人によって立ち位置は違うし、
見え方は違うのだから、
わたしはやりきった自分を
自分なりにすごいと思うだけでいい。
それはそれでいい。
そして今の自分が社会に機能しないことが
とても悔しい。
怖いという気持ちがあって、
何かひとつパズルのピースが欠けていて、
だから勇気が出て来なくて、
及び腰なのではないかな?と。
*
「Trust !」と、
2005年からずっと
ラハシャがわたしに言ってくれています。
何を?何を根拠に?どうやって?
こんなに怖いのに?
*
今晩は、それに向き合ってみます。
ストーン・コンシェルジュ & アクセサリー作家 みたけさやか
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