2011/09/23

結晶会議・12
















surya
たなかみほちゃんとの

結晶会議も12回目!

1ダース!
とか無意味に盛り上がります(笑)。

 *

今回はしばらく間が空いてしまったので、
本当に久しぶりの会議でした。

始めた頃に比べたら、
お互い随分と状況が変わってきたなあと思います。

みほちゃんは、
顔つきがちょっと変わってました♪

 *

どれだけ忙しくなっても、

結晶会議は続けていたいものだなあ…と
思います。

クリスタルを通して見えてくる
「感覚」の色々は、

宝石箱を開けたような感動でもあり、

人一人が生きて居ることの
確かな証でもあるような気がします。

同じクリスタルを観ても、
感じることは違い、視点も違い、

しかし

何か同じようなことを言っている、
という感覚。

日本では特に、
覆い隠されやすい「違い」かも知れませんが、

そこにだから潜んでいる
豊かさを

目の当たりにする時間です。

違うって
豊かで面白いなと思います♪

 *

何故か写真を撮り忘れているのですが、

みほちゃんは、
ラリマーを相変わらずワーク中のようでした。

「ワーク」とは、この場合、

そこに意識を向けている、
ピントを合わせている、

という感じのことを言っています。

 *

みほちゃんは、

すごく深い色の
美しいラリマーを見せてくれました。

1度あんまり好きじゃなかったものを
好きになるというのは、

もう嫌いになれないということかもな~、なんて思います(笑)。

3大ヒーリングクリスタルなんて銘打たれて、
「けっ、なんだよ」と思っていたらしいのですが(笑)、

実際にワークしてみると、
その良さにびっくりみたいなね♪

癒される~!という言い方を彼女はするのですが、
わたしには一向にピンとは来ないので、

本当に不思議なものだと思います。

ただ、

みほちゃんの話をじっくり聴いていると、

ラリマーって、
関係性において発現するエネルギーなんじゃないかなって、

すごい感じました。

わたしが、
わたしの自身の内側に見つける

「こんな感覚もあったんだ」というものではなく、

他者との関わりの中で見い出すもの、というか。

他者が介在して
初めて見つけられるエネルギーというか。

他者に気持ちが向いた時には、
ラリマーを使えそうだなあという感覚というか。

自分が自分のために、
ラリマーのように言動することは難しくても、

他者に対してなら、
割と使える感覚かな、というか。

 *

みほちゃんは、
ラリマーによって、

ローズクォーツよりもずっと深いところでの
自己受容をした、

というような言い方をしていたのですが、
なんかちょっと判る気がします。

そうやって見せられたラリマーには、

深い受容と、

足場がしっかりしているような
手ごたえみたいなものがあって、

いいなあ、この安定感。
と、思います。

とはいえ、

わたしにはまだ、
ラリマーは良く判らないです(笑)。

 *

わたしはダイヤモンドとトパーズについて
ここしばらく考えていたので、

それについて語っていました。

ダイヤモンドから見ると、
フローライトは詰めが甘くてふわふわなんだけど、

トパーズから見ると、
神経質に見えるんだよね、

という話をしたら、

みほちゃんにはとっくに神経質に見えていたらしく、
面白いなあと思ったりして(笑)。

ダイヤモンドに意識を合わせていたら、
フローライトは休息だけど、

トパーズに意識を合わせていたら、
フローライトは繊細過ぎて疲れるのです。

興味深いです。これは(笑)。

「鈍感力も大事だよ」なんて言われてきたわたしにとっては、
すごく新しい感覚です(笑)。

 *

トパーズは、

身体における最上級の精神性の高さ、
かなあという感があります。

身体と精神というのは、
結晶会議では欠かせない表現なのですが、

みほちゃんとわたしの根本的な違いを端的に言うと
身体と精神、みたいになります。

簡単に言うと、

みほちゃんはダンスで自己表現をしていて、
わたしは小説を書いて自己表現をしていた。

みたいな違いです。

これは、
どっちが得意か、みたいなことです。

不思議なことに結論は同じところへ向かうのですが、
取っ掛かりが違うという。

 *

トパーズは、
身体寄りの意識の持ち方かなと感じます。

身体の限界に対して
敏感ですから、

最大のパフォーマンスを出すためには、
今は体力がないから止めておこう、

みたいな、
身体への配慮が出来ます。

ダイヤモンドは、
今がその時だと思ったら、

出来る無茶はし尽くして、
今その時に最大限のパフォーマンスをします。

継続よりも
瞬間的な最大値に対して焦点を合わせる。

極端に言えば、そんなやり方。

気力で持たせる、
みたいな言い方は、

ダイヤモンドにはあっても、
トパーズにはなさそうです。

 *

トパーズは、
いつも朗らかに笑っているみたいな明るさ。

肉体を離れてしまう(精神的)
という意味では、

モルガナイトやアクアマリンが

聖母の慈愛のような
ある種の抽象的な存在感なのに対して、

ピンクトパーズは、

肝っ玉かあさん、のように
もっと現実味のある存在に例えられます。

具体的であるというのは、
身体に近いエネルギーの特徴かも知れません。

これだけでも、
エネルギーの違いは明らかですよね。

 *

みほちゃんからは、

「ダイヤは恐れ多くて手伝えないけど、
トパーズなら手伝える」という話があって、

それはいい例えだなあと思いました!

わたしは今回

トパーズをずっと使ってみて
初めて気がついたのですが、

ダイヤモンドの求めている完成度は、
多分生半可なものではないので、

多くの人にとっては、

「ついていけない」
ものかも知れないなあ…ということ。

ダイヤモンドの見ている完成形は、
共有しにくいかも知れないな…ということ。

ダイヤモンドから見ると、
トパーズは、甘い(やわらかい)のですが、

トパーズも充分固いと言うか(意味不明かしら)。

 *

それから、クンツァイト。
topの写真がそれです。

これまた
みほちゃんが、

ずっと言ってるのですが、

「突き上げるような喜び」
というのは解るなあと思います♪

他者と共有できなくてもこれは自分的にツボなの、
ウレシ~!

という感じ。

自分にだけ解る
突き上げてくるような喜び、

確かにこういう感じかも、と思います。

クンツァイトって、
意識の高いところに居るのですが、

その色彩がピンクの割に
孤立感があります。

ピンク色系のクリスタルには、
横広がりのゆったりした感覚が似合うと感じるのですが、

クンツァイトは、
カイヤナイトみたいに、どこか突き刺さってくるイメージ。

どうもそのヒヤッとした感覚が解らなくて、
個人的にはピンと来なかったのですが、

みほちゃんが「突き上げるような」と話してくれた時に、
あ、なるほど、と思いました。

ものすごく個人的に刺さってくるような、
他の人には共有の難しい喜び。

「解ってもらえないけど、いいや」
それでもわたしはうれしい。

という感覚。

確かにクンツァイトっぽいですよね。

 *

みほちゃんが話していた事で
これまた面白かったのが、

「種」という話です。

彼女は、
自分の日々のあれこれを、

収穫に例えて認識しているかのようでした。

耕して、種を蒔いて、育てて、
花が咲いて、また実をつけ種となる。

なんだか例えが
実直でいいなあ…と思います。

 *











みほちゃんの2~3年前の「種」。












こっちは、最近の「種」。

みほちゃん変わったよね、と感じます♪

 *

エレスチャルや、DT や、ハーキマーを
今「種」と認識している

みほちゃん。

興味深かったのは、

エレスチャルについて
「積み上げてきたことあっての、今」と

捉えていたことでした。

わたしは、

ある物事を完成をするために
その物事を分解して

何と何をやったら完成するかを読む、
ステップとして捉える力、

みたいなこととして、

その瞬間に
エレスチャルを捉えたので、

過去があっての今、という
みほちゃんの捉え方はすごく身体的で

(身体は、過去があっての今という時系列を生きて居るから)

なんか、うらやましい位でした。

未来あっての今からのステップ、という捉え方は、
やっぱり、そこには身体が不在ですよね。

わたしは未来をかなり物質的に認知しやすいので、
ないものをあるように分解したりしますが、

ないものじゃなくて、
あるものを基点に物事を組み立てる

みほちゃんの意識がうらやましくなりました。
ホントに!

 *

風邪を引いていることもあるし、
rooms での世界観作りの反省とかもあって、

ちょっと落ち込み気味です(笑)。

なんか、
もっと眠って少し元気になったら、

無彩色の服を着て、
ぶらぶら散歩でもしようという気分です。

 *

ちなみにわたしが
今回の結晶会議に持って行ったのは、


この数ヶ月を過ごす中で、
みほちゃんに見せたいと思ったのはこの2つだけ。

これといった話題には
上らなかったのですが、

「種」と言うなら、
これらがそうかなあと思います。

 *

ひと言だけつぶやいてもいいなら。

全部が正しさを内包していると知った上で、
自分の正しさを貫くのは骨が折れる。

ということ。

自ら選択するということは、

他者の意見に屈するよりも
難易度が高いかも知れません。

見えているところまでが、見える。
解っているところまでが、解る。

まだ解らないことがあると判っていても、
解る範囲で決めるしかないということの怖さを味わっています。

ま、考え過ぎているということなのですが(笑)。

 *

なんだか判らなくなって来たので、
このへんで。


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