2012/10/03
透明な部分以外が個性なのであり
こういうお仕事をさせていただいていると、
時々思います。
制限を外すことだけが大事な訳じゃない。
制限を受け入れることも大事なのだ。
みたいなことを。
*
確かにわたし自身は30代の頃に、
「自分を解放する為には、
制限を外すこと」
そんな風に思っていました。
でも、
透明な状態を経験してみると、
透明になることが大事な訳じゃない。
その後、どう生きるかなんじゃないのかな。
とすごく思うようになりました。
*
人は、自分独自のフィルターを通したものの見方を、
ひとそれぞれにしているものですが、
(例えば、これは良いこと!とか、これは悪いこと!といった)
個性って何だろうと思うと、
それはフィルターによる彩りなのではないかなあ?と。
これには色々な意見があるとは思うのですが、
その人が意識的に、また無意識的に選択をして来た、
その結果の「彩り」が、個性なんじゃないかなあ…と。
*
20代のわたしは、フィルターを外して見える最終的な光を見て、
人を好きになっていました。
抑圧が酷いと、
案外本質の輝きはとても強いもので、
酷く美しかった。
その光を表に出すためには、
どうしたらいいのかを考えていました。
でも。
表に現れてくるのは、
フィルターによってゆがめられた言動。
これを受け取るのは、
ちっとも幸せじゃなかったなと思います。
別に本人が「自分の輝きを観たい!」と言っている訳でもなく、
わたしのやっていたことは、
本人の望まない、
おせっかいだったのではないかな…と思えてしまいます。
*
表面に出ている「表現(言動)」を観て人を判断するというのは、
ある意味「輝き」を無視することでした。
輝いているけれど、
ああ、この表現はわたしにとってきついから、離れておこう。
という意識を持つことは、
とても身体的でした。
こうなってくると、
愛せるものの幅はとても狭くなります。
でも、身体を持った「わたし」という不透明なものは、
その方がとても楽になるのです。
*
そして、
それは居心地が悪いな、
それは気持ちがいいなといったことを感じさせる
わたし自身のフィルターを、
わたし自身が大切にすることは、
大切なことだったのです。
表現されているフィルターは、
個性なのだ。
という認識が生まれて来ました。
*
訓練された、知覚、味覚。
習慣化された思考。
自分をしょーもないなと思ったり、
どうしてここは頑なのだろうねえと思ったり、
透明な視点から見たら、
本当にどうってことないことが、
居心地良かったり悪かったりする。
でも、それが自分の豊かさであり、他者との違いであり、
だから分かち合う喜びがあるんじゃないの?
と思えてくるのです。
*
目醒めと言われる、
透明な状態を知っていることは、
いいことだと思います。
それは、
「責任」ということを考えるのにも
すごく大事な視点を与えてくれます。
大概のことは、
自分の内側で起こっている。
だから、大概のことは、自分の責任の範疇にある。
それを納得するには、
この透明な状態を知っていることが、
とても有効だと思うからです。
でも、その為に、
自分の中にある様々なことを善悪に分けたり、
悪と分けたものを排除したりは、
本当に必要なのかなあ…?と思います。
*
わたしは、
自分で感じる自分のダメなところを
徹底的に排除するという方向に進んだことがあります。
「全ては自分が引き起こしている」
という言葉の解釈を、
「不都合なことが起こるのは、
自分が何か悪いものを持っているからだ」
と認識してしまったために起こったことでした。
*
「全ては自分が引き起こしている」の意味を
誤解なくシンプルに理解出来るようになるには、
透明を経験するのが一番なのではないかなと思います。
*
透明な状態を知ったからといって、
自分の感情がいつもいつも平坦になる訳じゃありません。
起こさない領域に留まることも出来るのかもしれませんが、
わたしはあんまりそれは、面白くないなと思います。
それじゃあ一体なんのために、
今、こうして生きているのかよく解らないから。
なんのために?
という問いかけも、
ちょっとナンセンスだなと思いつつ、
こうして生きている以上、自分の枠組みを楽しむことは
ごくごく自然なことなのではないかと感じてしまいます。
*
自然に生きている以上、喜怒哀楽は起こります。
感動の幅は広がりますが、
フィルターが消滅する訳でもなさそうです。
むしろフィルターは可視化されて、
より、ハッキリ見えるような気がします。
わたしは、こうされると、こんな風に感じるんだ!
という彩りの発見は、
豊かさの顕現だなあと思います。
*
透明ではない部分が美しい。
もちろん、
透明なものは美しいけれど、
時には、白い服じゃなくて、赤い服が着たくなったり、
いやいや、今日は青が良いな、
緑が良いな、黄色が良いな、
みたいなことは豊かさだなと感じます。
*
フィルターの内側という制限も、
それはまたそれで美しい。
認め合えれば、豊かさに変わる。
そういうものなのではないかな?
と、今のわたしは思っています。
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