2012/02/16
制作
作ることについて考えていました。
*
わたしの家は、
父がデザイナー、
母が絵と工作教室の先生(TV・雑誌にも取り上げられた)で画家、
わたし(グラフィックデザイン科)も
妹(油画科)も美術大学を卒業している。
という家族構成です。
*
小さい頃から
描くことや作ることには親しんでおり、
その評価については、
ちょっと厳しい環境でもありました。
*
学校で作ったものを褒められて帰ってきて
親に見せると、
「もっとこうした方がいいね」
「その程度で満足してるの?」
というような反応が返ってくる環境でした(笑)。
*
美術大学に進むと、
それこそ全国の学校から
いわゆる「絵の上手い」人が集まっていました。
結構広い学食があったのですが、
学食にいる全ての人が、
絵が上手い人だというのは
不思議なことでした。
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上手いことは当り前。
当然
それ以上が求められているかのようでした。
いかに個性的で在れるか、
いかに自分らしく表現出来るか、
そういうことが常に問われる毎日でした。
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基礎クラスを担当された教授は、
僕は平等にするつもりはありません。
という人でもありました。
社会の中で、
作って食べていくことの厳しさを
真剣に伝えていらっしゃる方でした。
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学生がちょっといいものを作っていたら、
教授はその芽を摘んじゃうよ、
こっちはもう社会に出ているわけだから、
それは強いよね、
というお話もなさっていたと記憶しています。
素直に酷い!ともとれましたが、
優しい警告ともとれる内容で、
それは実際モノ作りの世界では、
よくある話でもあります。
言われなければ、
その厳しさを想像することもなかった学生の自分としては、
この先生、
すごく正直だなあ…と思って、
感動すら覚えていました。
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実際、
様々な教授がいらっしゃいましたが、
わたしが一番怖かったのは、
褒め殺し系の先生でした。
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また、
わたしは本当に作れない学生だったので、
「キミはプレゼンはいいけど、作品がねえ…」と言われて、
本当にそうだった為(笑)にショック過ぎて、
その後しばらくの間は、
プレゼンテーションの際に
言葉がつなげなくなるという経験もしました。
苦しかったです(笑)。
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課題は容赦なく次々と出ましたから、
必死に考えて作り続けましたが、
考え過ぎて、
判りにくくなることも多く、
素直に作ることが
全く理解できないまま卒業をしました。
*
わたしは美大時代、
広告クラスをとっていたのですが、
そこで学んだ広告と、
リクルートで
仕事としていただいた「求人広告」は
とても違うものに感じました。
毎晩毎晩、
深夜まで本当に悩みました。
眠る直前まで「求人広告年鑑」を読み、
何故その広告が全国1位をとるのかが、
どうしてもどうしても判らなくて、
涙の出ることもありました。
*
求人広告の効果測定は
とてもシンプルに現れます。
採用数という非常にリアルな数字として、
毎週のように結果が出ますから、
広告としてはとてもシビアでした。
当時の上司は
突然怒鳴るような方でしたので、
ものすごい緊張の中、
毎日を過ごしていました。
*
教えてください!と言った時も、
わたしが何年もかかって
やっと解ったコツを教えるのは嫌だなあ…
と言われたりして(笑)、
教えてもらうことの下手だったわたしには、
もう本当にお手上げでした。
それでも成長をしないと、
高いお金を支払ってくださる
お客さまに対して申し訳ないことになるので、
社内のネットワークを使って、
教えてくださる方を必死で探し、
とにかく教わりに行きました。
これもまた部署では、自分の評判を落としました。
教えたくないと言った人に、
何度も教えを請うのはとても勇気が要るので、
わたしにはそれが殆ど出来なかったのです。
*
その後、
全社コンクールで
全国2位をいただいた時は、
精神的にも、
かなり厳しくなっていましたし、
部署内には褒めてくださる先輩もいなかったので、
あまり喜べませんでした。
自分の何が悪いのかも解らなくて、
とにかく暗い気持ちでいっぱいでした。
どれだけ働いても余裕は全くなくて、
自己肯定感はゼロ。
きっとダメなんだ、
出来ていないんだ。
強迫観念のようでした。
仕事が出来るようになりたい一心で、
目の前のことに必死で取り組んでいました。
*
希望で子会社の
メディアファクトリーに出していただき、
主にアートディレクションの
仕事をさせていただきました。
パッケージや広告、販促物といった
クリエイティブ全般を制作する部署に居たのですが、
この時に初めて、
仕事の面白さに出会えました。
沢山の社外のクリエイターさん方が、
わたしの仕事を
理解してくださったことも大きかったと思います。
*
ただ精神的には
それまでの否定感が限界にまで来ていたので、
追い詰められていたのでしょう。
ある日電車の中で冷汗が出て震えが来て、
立ち上がれなくなって救護室へ運ばれ、
上司と庶務さんが駆けつけてくれて
そのままタクシーで実家へと運ばれました。
*
何で会社に行けなくなるのか解らない。
といった感じで、
実家で療養するには両親の理解が乏しく、
ストレスになってしまったため、
お腹を下して
ヘロヘロになりながら(笑)
一人暮らししていたマンションに戻りました。
空を見ながら
「ああ、お腹の中が空っぽだ…」
なんて思いつつ
ボーっと横になっていたことを思い出します。
*
その後、
何とか職場復帰を果たし、
ようやく仕事が楽しめるようになって来た頃。
リクルートの元の事業部へ戻るように
という辞令が出たのですが、
結果的に退職を選択しました。
*
フリーランサーとして仕事を始めましたが、
今思えば無駄なプライドばかりが高くて、
本当に使えなかったと思います。
ありがたいことにお仕事はいただけていましたが、
大きなクライアントさんの
お仕事を定期的に引き受けさせていただいて、
とてもありがたい反面、
目の前のことに必死になり過ぎました。
常に新規開拓を行うといった基本的な重要さにも
目を向けられない程でした。
*
法人にさせていただいたのも、
何かビジョンがあったからではなく、
クライアントさんからお願いされての法人化でした。
*
当時30代前半。
パートナーとの
結婚、出産といった選択肢も頭を過ぎる中、
朝から晩まで
仕事をする日々で、
やっぱり余裕はありませんでした。
フリーランスの世界がとても厳しいことは、
父の仕事を見ていて何となく知っていました。
代わりの人がいくらでも居る事も、
自分がADとして沢山のクリエイターさんと関わる中で
実感として知っていました。
自分に自信が「全く持てない」と言うことは、
本当に厳しいことだったと思います。
必死でした。
そしてやはり追い詰められていたと思います。
*
そんなわたしには、
30歳前に個展をやりたいという夢があり、
29歳の終わりに
銀座の画廊で実現が出来ました。
駆け出しのフリーランサーとして、
準備の為に1ヶ月仕事を断るのは
どれ程の勇気が要ったことでしょう。
それでも、
決意して取り組むほど、
個展を開くというのは
わたしにとって何かとても大切なことであり、
と、同時に
わたしにとって恐ろしく勇気の要ることで、
命がけの崖っぷち
みたいな気持ちでした。
初めて自分のために、制作をしました。
デザインの仕事は、
「クライアントさんのための制作」であり、
「自分のための制作」とは
到底かけ離れているものなのです。
*
イラストの個展でした。
100人近い人が会場に来てくださいました。
そして大笑いして帰ってくださった方もいらっしゃいました。
わたしはとても真面目なのですが(笑)、
楽しい感覚だって持っている。
それが証明されたかのように感じました。
自分が笑いの感覚を表現出来たことに
あまりにもうれしくて涙さえ出ました。
伝わったことは小さな自己肯定を促してくれました。
本当に本当に、
とてもうれしかったです!
その後、自信をほんの少し持てたのだと思います。
「さや、あれから変わった」と
当時のパートナーから言われました。
*
でも、そのパートナーが
個展の準備期間中に浮気をしていたことが
個展後に発覚しました。
精一杯作ることで取り戻した筈の自信は
ズタズタになりました。
当時のわたしはパートナーに、
自分の存在肯定を
酷く依存していたのです。
*
その後、
彼は心臓が止まってしまいました。
息を吹き返したのですが、
色々あってお別れをしました。
ヘトヘトになりました。
限界でした。
*
翌年。
長年心臓を患っていた
フェレットのずん太が他界。
さらに翌年に、
フェレットの将太も他界しました。
大切なものが全て消えてしまった部屋は、
ものすごく広く静かでした。
そしてわたしは、
その数週間後にバランスを崩し入院をしました。
*
入院中は、
意識が朦朧とする中でも
絵を描いていたようです。
意識がハッキリしてきた時に、
看護師さんがご自身のファイルに挟んでいる
わたしの絵を発見しましたが、
わたしには書いた記憶がありませんでした。
*
スケッチブックを手に入れて、
余りにも辛い時は、
自分を保つために、
泣きながら絵を描いていました。
絵が描けるようになってきた、ということを
初めて実感しました。
*
退院後。
ある意味わたしに残されていたのは、
アクセサリーを作ることだけでした。
*
Holly heal のアクセサリーは、
2004年の10月から
ひっそりと作っていました。
退院してきた時は、
オーダーが3つだけ残っていました。
これはちょっとした賭けと希望でした。
*
3つ作らせていただいて、
3つが受け取っていただけた時、
毎月3つなら、3つなら作れる。
作りたい。
と思いました。
*
そこから
Holly heal new life
が始まりました。
*
こんな風に、
わたしの人生には、
ずっと「作ること」がありました。
作ることが続いている背景には、
作ることが好きだという気持ちはもちろんあります。
でも、単なる楽しさとは、ちょっと違っていたのです。
プロとして制作することは、
尚更、
楽しさとはちょっと違っていたのです。
激しく厳しい世界でした。
*
退院直後。
お友達に買っていただいていた頃の、
Holly heal は
出来ることを
ただ精一杯やることでした。
でも、これは。
両親が
綺麗だ綺麗だと、
褒めてくれました。
驚きの体験でした。
作る度に、
綺麗だ綺麗だ、いい色だ、と褒めてくれました。
*
わたしが
楽しく作れるようになったのは、
ビーズバランスさんで
クラスを受けてからだったように思います。
楽しみのために作る、
すごく上手くなくても
それを褒めてもらう経験は初めてでした。
あらゆる意味で、
キットを作るというのはすごく面白い経験でした。
*
そして清水ヨウコ先生に出会いました。
わたしは、
彼女を、
創作の本質を
ものすごく深く知っていらっしゃる方だと感じています。
その先生が作るものを間近に観て、
質問までさせていただける。
いつでも見せに来てね、と言っていただける。
作る上では、
恐ろしいくらい贅沢なことです。
自分の中で
成長の起爆剤を探していた時期に
本物だと感じられる先生と出会えたことは、
本当にラッキーなことでした。
*
心が、自己表現に目覚めてきました。
作れるものは
まだまだ素人ですが、
作ることが、
やっと解ってきたのです。
*
そして心底ありがたいことに。
Holly heal は、
いつの間にかお仕事になりました。
お友達の枠を超えて、
初めてBlog からオーダーをくださった方とは、
お会いすることも出来ました。
沢山のお客さまが、
心の励みとなり、支えとなり、
そうして今があります。
*
ちょっと前まで
Holly heal について「おしごと」と表記していたのは、
自分が捉えてきた
「仕事」とのギャップを表していました。
*
自己表現という意味で
自分のための制作とは違うのが、
Holly heal の制作です。
*
20代の頃、30代前半のわたしの制作は、
ある意味命を削ることでした。
今は少し違うような気がします。
もっと喜びに溢れたものかも知れません。
*
作ることは楽しいと知り始めた自分が、
「おしごと」と「仕事」の合間で、
いい塩梅の「お仕事」を見い出すのは
いつになるのだろうな…と思います。
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